藤田傳・細見 第三回『黒念仏殺人事件』(下)

 劇団1980(ハチマル)が『黒念仏殺人事件』を初演したのは1997年12月。紀伊國屋サザンシアターにおいてである。結成から17年がたち、すでに本公演の数も33回を数えていた。シアターモリエール(現今のではなく、廃墟のキャバレーの内部に仮設で舞台を組んだもの。現在の劇場はその跡地に建った)で旗揚げ公演を行い、当時山手教会地下の渋谷ジアン・ジアンを拠点として使用していたハチマルが、劇団民藝や文化座、青年劇場、こまつ座らが公演を打つ、いわば新劇の常連劇場に乗り込んだのだ。客席数100名内外のミニシアターから300数十名を擁する中劇場への進出。いかにハチマルが『黒念仏』公演に力を込めていたかがわかる。舞台美術には俳小版の松下朗を起用した(櫂は高田一郎)。 松下は築地小劇場の美術家・吉田謙吉演劇研究所で学び、戦後村山知義が立ちあげた新協劇団に入団して藤田の先輩になる舞台美術家の重鎮だった。

劇団1980 第 33回公演
黒念仏殺人事件 チラシ

1997年12月14日〜20日
紀伊国屋サザンシアター

劇団1980 第 33 回公演
黒念仏殺人事件 パンフレット より

 俳小版から変わったこともあった。振付が関矢から西田舞踊研究所の西田堯へ、音楽が上々颱風のキーボード、猪野陽子へと変わる。いずれも後半の村人たちの「念仏講」の場面で、念仏踊りが次第に高潮し、遂には徳三によるタカ殺しが起こるというところで効果を発揮する。いや、それよりも最大の変化は、初演の3幕が2幕になったことだ。復員してきた徳三が、天皇に向けて石を投げたというくだりや同棲していた「川崎の女」との川崎の場面がごっそり削られた。戯曲を読む分には『山崎、天皇を撃て!』の奥崎謙三(映画『ゆきゆきて神軍』の主人公)を連想させ、面白い部分なのだが、確かに枝葉といえば枝葉である。これによって3時間余りの上演時間が2時間強になった。徳三は柴田たちから八期ほど下の横浜放送映画専門学院出身の佐藤リョースケが抜擢され、タカには劇団俳優座から美苗を迎えた。柴田は徳三と対立する村会議員の須藤嘉吉、山谷が演じた駐在の牛島にはハチマルに新たに加わった元・世仁下乃一座の里村孝雄、地元県警の坂巻刑事に当時のハチマルの中心俳優の一人、加瀬慎一が出演していた。

劇団1980『黒念仏殺人事件』 撮影 宮内勝

 この公演はミレニアムの2000年6月にルーマニア、モルドバの東欧公演を行う。メインはルーマニアの古都シビウで毎年開かれるシビウ国際演劇祭とモルドバの首都キシナウで 隔年開催されるBITEI(ビエンナーレ国際演劇祭ウジェーヌ・イヨネスコ)への参加であるが、両者の間が1週間空いてしまう。窮余の策がルーマニアの首都ブカレストと黒海沿岸の 港湾都市コンスタンツァへの巡演だった。この公演ツアーで『黒念仏』はもう一回変容する。2幕が休憩なしの1幕になるのである。
 ハチマルがシビウ国際演劇祭に参加するのは95年の第二回(『謎解き河内十人斬り」ての参加)に続いて2度目だったが、チャウシェスク大統領の独裁を倒した「民主革命」から 11年が経過していたとはいえ、まだまだインフラは整備されず、ホテルを始め、多くの施設が旧態依然のままだった。『黒念仏』が上演されたのはかつての共産党大会などで利用された約800人を収容する「労働組合・文化の家」の大ホールだった(95年公演も同じ)。当時は字幕の設備もなく、考え出されたのが文楽などの場の転換で用いる「めくり」である。

ルーマニア・モルドバ公演
黒念仏殺人事件 ポスター

 ルーマニア語に翻訳された最小限の台詞を書きだして模造紙上に投影し、場を解説する。 これが奏功したのは、私が観客から聞き出した「こうした不条理な事件はルーマニアでもよくある」だった。後になるが、カンヌ映画祭で主演女優2人が女優賞を受賞し、話題になったクリスティアン・ムンジウ監督のルーマニア映画『汚れなき祈り』(12年)も土着的な宗教を扱うもので、狂信的な信仰心から次第に正気を失い、修道女たちに「悪魔祓い」と称する 私刑を受けて死んでしまう少女を描く映画だった。この少女は『黒念仏』における、座敷牢へ入れられ、やがて「神かくし」に遇うタカと徳三の妹・チカに照応する。ルーマニア社会の “土俗”。勿論、ハチマルはそこまで考えての遠征ではなかったろうが、観客にこのドラマは 確実に届いていた。

 少女を演じて女優賞を得たクリスティーナ・フルトゥルは当時、国立ラドゥ・スタンカ劇場 (シビウ国際演劇祭の主催劇場)所属の女優で、私にはチェーホフ『かもめ』(アンドレイ・シ ェルバン演出)のニーナ役(07年)で近しい。しかし、この映画がきっかけで彼女は劇団を辞め、映画へと方向転換した。ハチマルの俳優とはちょうど逆になる。

 モルドバのBITEIへの参加は初めてだったが、赤絨毯敷きルネサンス様式の国立ミハイ・エミネスク劇場での上演。当時、拠点劇場を持たないウジェーヌ・イヨネスコ劇場にとっ ては最大の厚遇だった。芸術監督のペトル・ヴトカレウは藤田の依頼によって、日本映画学校3年生の03年度3学期の授業を担うなど、その後の日本ーモルドバ演劇交流の端緒になっただけでなく、22年のハチマル公演、ヴトカレウ演出『検察官』(紀伊國屋サザンシアター)のような傑作を生みだした。すべては『黒念仏殺人事件』がきっかけだった。

七字 英輔  しちじ えいすけ

 1946年大分県生まれ。月刊『ローリングストーン』(日本版)、季刊『is』(ポーラ文化研究所)各 編集長を経て、編集プロダクション(株)テスピスを設立(代表取締役)。82年頃より各紙誌に演劇批評 を執筆する。86年~96年まで前橋芸術祭の総合プロデューサーを務める。92年に韓国から劇団木 花を、96年~07年に4回にわたりモルドバからウジェーヌ・イヨネスコ劇場を、02年にルーマニアからラドゥ・スタンカ劇場を日本に招聘する。またシビウ国際演劇祭(ルーマニア)、キシナウ国際演 劇祭(モルドバ)の窓口役を果たすとともに東欧演劇との積極的な交流を行っている。

【資料】
藤田傳 全劇作(脚色・脚本)一覧

藤田傳・細見 第一回 黒念仏殺人事件(上)

藤田傳・細見 第二回 黒念仏殺人事件(中)