藤田傳・細見 第二回『黒念仏殺人事件』(中) |
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俳優小劇場『黒念仏殺人事件』には劇団の著名な俳優こそ、小林昭二以外、出てい なかったが、しかし、その後活躍する俳優が輩出した。 その筆頭格は山谷初男だろう。山谷は秋田県の出身で、個性的な風貌と科白に癖 (東北弁の)があったために劇団ではなかなか役がつかなかったと本人から聞いたこ とがある。それが今村の『パラジ』で見出され、『黒念仏』では村の駐在・牛町五兵衛 の役で出演している。鈍重だが、いかにも純朴な田舎交番の巡査という役柄がぴったりで、強く印象に残っている。同時に 1967 年に結成された寺山修司の「演劇実験 室・天井桟敷」に加わり、その第2回公演『大山デブ子の犯罪』や第3回公演『毛皮 のマリー』に出演した。東北出身ということで“寺山が愛した俳優”の一人でもあっ た。 山谷は後年、映画、テレビで貴重なバイプレイヤーとして活躍するようになるが、 何より私財を投じて、94 年に故郷の秋田県角館町に小劇場「はっぽん館」(「はっぽ ん」は彼の愛称)を建設、開場したことで話題を呼んだ。私も、雪深い頃に同館を訪 れたことがあるが、親しく言葉を交わしたのはいつも劇団 1980(以後、ハチマル) の公演後のことだった。俳小『黒念仏』の舞台を忘れ難かったのだろう。 |
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俳優小劇場 第33回公演 昭和 46 年 2 月 17 日~24 日(21 日休演) |
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現「劇団俳小」の代表、斉藤真も出演している。『黒念仏』初演時は、まだ研究生の 新人で、県警の鑑識員で出ていた(驚くのは若き日の市村正親が出演していたこと。当時、市村は西村晃の付き人だった)。だが、〈小劇場運動〉の急先鋒だった俳小が、 同71年に解散することになる。斉藤は、慕っていた劇団主宰で演出家の早野寿郎を担 ぎ、俳小を継承する「劇団俳小」を創立する。83 年に早野が逝去すると、自ら劇団 の代表を継ぎ、今日に至る。その劇団俳小に、藤田も数多くの新作を提供した。原作 者の安部譲二が“俺の小説より面白い”と絶賛した『塀の中の懲りない面々』(87 年) や、2004年に米国(ロサンゼルス、ハワイ)公演も行った『ジョン万次郎外国見聞 録』(94 年)が代表的な作品といっていい。私はこの劇団が藤田脚色『剣ヶ崎』を上演 (98 年)した際、パンフレットに寄稿し、劇団俳小、なかんずく主宰の斉藤と親しく なった。それも藤田が繋いだ縁である。 もう一人、忘れてならないのが振付の関矢幸雄だ。関矢は東宝の演出部にいて、ミ ュージカルのステージングを担当していたが、東宝で俳優養成の仕事を請け負ってい た早野が俳小にひっぱりこんだ。俳小では『日と火と碑と人』(69 年)の脚本・演出・ 振付を手掛け、劇団俳小の早野追悼公演でも同作の演出を行っている。その後、「鬼 宴」(75 年、藤田作『鬼の宴』を上演するために結成された同人組織、今で言う「ユニ ット」か)で、結城亮一作、藤田脚色『あゝ東京行進曲』(82 年)を演出。これが後 に、ハチマルの『素劇 あゝ東京行進曲』となり、深沢七郎作、関矢構成・演出『素 劇 楢山節考』という、ハチマルの〈素劇〉シリーズへと繋がる。それについては稿 を改めて詳述したい。 『黒念仏』は俳優小劇場の解散で再演を見ないままだったが、俳優・中田浩二主宰の劇団櫂が80年に上演を果たす(東邦生命ホール)。“日本人の芝居を”を掲げた劇団 代表の中田は、『魔と怨の伝説』(80 年 5 月)、『黒念仏殺人事件』(同年 10 月)と藤田 脚本・演出作品を連続上演し、82年の『黒念仏』再演(国立劇場小劇場)では文部省 芸術祭優秀賞を受賞。85 年には本多劇場で三演も行っている。中田浩二はテレビ時 代劇に欠かせぬ名脇役だったが、『黒念仏』では、俳小版で西村晃が演じた徳三に扮し た。これらを機に中田は藤田と親交を深め、新作の戯曲を藤田に依頼。そして『異説 豊後訛り節』(84 年 2 月)や、津本陽原作『血痕』(84 年 11 月)といった、実在の事 件を扱う問題作を発表する。後二者についてはいずれ触れようと思う。 藤田がオリジナルの作品を数多く書くようになるのはこの頃である。今村昌平の強い勧誘で、今村が校長を務める横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)に奉職 し、1980 年に俳優科の卒業生と旗揚げしたハチマルを主宰するようになってから だ。現在の劇団代表・柴田義之や、藤川一歩、山本隆世ら2~4期生を含む二十名近くがいた。藤田が次々と書き下ろす新作は、20 代の若者に供するには荷が重いと思 われる演目が多かったが、舞台は充実していた。そして、遂に彼らが『黒念仏』を上 演する時が来るのである。 |
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【資料】 藤田傳 全劇作(脚色・脚本)一覧 |