藤田傳・細見 第十回
『異説・豊後訛り節』と『虎美』(上)

 

『異説・豊後訛り節?転落・詐欺・死刑?』は昭和59年(1984)2月9月、劇団櫂の第18回公演として初演された。既述のように、劇団櫂は中田浩二主宰で、77年旗揚げの若い集団だった。第7回公演(1980年)で初めて藤田作品(『魔と怨の伝説』)に挑み、次いで第8回公演で念願の藤田作『黒念仏殺人事件』(同年)を上演した。これが成功し、2年後には国立劇場小劇場での再演(昭和57年度 芸術祭優秀賞)に結びつけ、新作の 依頼に繋がったのだろう。

劇団櫂 第18回公演
異説・豊後訛り節 初演チラシ

作・演出 藤田傳
「異説・豊後訛り節ー転落・詐欺・死刑ー」

1984 年 2 月 29〜3 月 5 日
新宿 紀伊國屋ホール

鬼宴・同人公演 No.9 鬼宴版 豊後訛り節 パンフレット


作・演出 藤田傳
1984 年 6 月 15~19 日 下北沢ザ・スズナリ

 

 題材となったのは昭和49年(1974)11月に大分県で発生した「三億円保険金殺人事件」である。11月の深夜に別府国際観光港フェリー岸壁から親子4人乗りの乗用車が転落し、母子3人が溺死、父親のみが車から脱出し助かるという事故だった。しかし、その後、事態は急変する。母子に3億2千万円もの生命保険が掛けられていたことが判明し、子供2人は妻の連れ子であったことから夫の殺人への疑惑が湧き起こった。マスコミは連日、この事件を報道し、容疑者の荒木虎美も自らテレビのワイドショー番組に出演し、無実を主張したことから、一種異様な報道の加熱状態が現出した。その後、所謂三浦和義の“ロス疑惑”(81~82年)など、保険金殺人疑惑の本人が直接マスコミに対 峙するような「劇場型犯罪」が台頭していくが、この事件はその走りといっていいだろう。

 この舞台はテレビ局から出てきた荒木が東京警視庁に逮捕され、捜査本部の置かれた大分県別府東署に移送されるところから始まる。その意味では藤田作でも珍しいストレート(途中、回想場面はあるものの)なドキュメンタリー・ドラマである。大半の場面をなすのが別府東署の捜査本部での県警本部長や刑事、交通課を含む署内の警察官らと荒木とのやりとりであり、密室の取調室を覗いているようで「ドキュメンタリー」というのに相応しい。舞台は突然、荒木が弁護士を解任し、その後の「起訴」が示唆されて閉じるが、1980年3月、大分地裁に始まる裁判の成行きはナレーターによって明かされる。求刑通りの死刑判決。争点となった“運転していたのは誰か”という問題も、判事は検事の言い分を全面的に認め、直接証拠のないまま状況証拠を積み重ねて「死刑」とした世界的にも珍しい事例となった。

 無論、荒木が上訴し、係争中であったこの事件を劇化するに当たり、藤田は慎重に登場人物を仮名にする。荒木虎美を「西分和美」としたほか、妻子や実在の刑事や弁護士なども仮名にしたが、観客はこの舞台が何を素材にしていたかはわかっていたろう。何しろ事件から10年足らずでの劇化だった。心中や殺人といった事件が発生すると直ぐにそれに取材して狂言化するのは人形浄瑠璃の“一夜漬け”で名高いが、今日ではあまり顧みられなくなった方法だ。事件の社会的評価が定まらないと手を出せないという理由の他に、犯罪者の人権への配慮がある。それだけに藤田による戯曲は当時としては画期的だった。

 私は紀伊國屋ホールで行われたこの舞台を観ている。多分、藤田から誘われたものと思う。劇団櫂を観るのは初めてだった。冒頭、中央に置かれた大きな四角いデスクの上に爪先立ちになって、周囲から突き出されるマスコミの多数のマイクや記者の手帳にたじろぐ西分(松田重治)の姿が強く印象に残る。しかし、この作には先行する舞台があった。俳優の丹波哲郎が俳優養成機関として開塾した「丹波道場」の研修生に向けた『異説 豊後浄瑠璃』がそれだ。前年9月の公演なので、『異説 豊後訛り節』のパイロット版なのではないか、と、後にハチマル版『豊後訛り節』(2023年)の演出を手がける山本隆世は推測する。山本ですら観てはいないのだ。

 気になるのはタイトルの「豊後浄瑠璃」である。豊後浄瑠璃というのは、大分県下で行われている郷土芸能で、演目は能や歌舞伎の『茨木』で知られる「一条戻橋」の説話、すなわち渡辺綱の「鬼退治」の話だ(その元は『平家物語』剣の巻)。源頼光四天王のうち随一の綱が一条戻り橋で斬り落とした鬼の腕を、伯母に化けて取り戻しに来た鬼にまんまと取り戻される「綱館」の場が有名だが、しかし、これをきっかけに頼光と四天王は鬼の棲家たる大江山に攻め入って鬼の眷属を滅ぼすというのが、歌舞伎や人形浄瑠璃の筋立てである。ちなみに、豊後浄瑠璃は一人語りの芸能で、かつては口三味線で演じられたが、現在ではそれも廃れ、もっぱら語り手の語りだけで上演される。豊後訛りで演じられるのが特徴で、大分県の4地域ではそれぞれ微妙に方言(里ことば)が異なり、演じ手も異なるという(入江英利「炉辺史話一〇 豊後浄瑠璃・綱の鬼退治」別府大学・別府大短期大学部)。私はこれで腑に落ちた。以前から「異説」というからには「本説」ないし「真説」があるはずで、私はそれを藤田に聞くチャンスを逃してしまっていた。その疑問がこれで氷解した。藤田は荒木虎美(この作では西分和美)を豊後浄瑠璃の「鬼」に比定していたのだ。さらに言うなら、「豊後訛り節」というのも、そういう唄や民謡があるのではなく、豊後浄瑠璃の異名に違いない。つまり、藤田は、荒木虎美が引き起こした事件とその顛末を「現代版・鬼退治」と考えていた、といっていい。

 もし「豊後訛り節」に物語上の実体がなく、単に豊後浄瑠璃を演じる際の「語り方」や「節回し」と考えれば(義太夫節や一中節系の音曲のように)、「異説」と唱えるのはおかしいことになる。藤田自らの演出による鬼宴の会での所演(劇団櫂初演と同じく84年)では、タイトルから「異説」の2文字が省かれ、代わりに「鬼宴版」と打たれた。この版を踏襲したハチマルの山本演出版もただの『豊後訛り節』である。

七字 英輔  しちじ えいすけ

 1946年大分県生まれ。月刊『ローリングストーン』(日本版)、季刊『is』(ポーラ文化研究所)各 編集長を経て、編集プロダクション(株)テスピスを設立(代表取締役)。82年頃より各紙誌に演劇批評 を執筆する。86年~96年まで前橋芸術祭の総合プロデューサーを務める。92年に韓国から劇団木 花を、96年~07年に4回にわたりモルドバからウジェーヌ・イヨネスコ劇場を、02年にルーマニアからラドゥ・スタンカ劇場を日本に招聘する。またシビウ国際演劇祭(ルーマニア)、キシナウ国際演 劇祭(モルドバ)の窓口役を果たすとともに東欧演劇との積極的な交流を行っている。

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