今年は戦後80年に当たり、思いがけず、「満蒙開拓団」の事跡が数多く報じられた。なかでも7月に公開されたドキュメンタリー映画『黒川の女たち』(松原文枝監督)のインパクトは大きかった。岐阜県の黒川村(現・白川村)から送られた「黒川開拓団」が敗戦後の引き揚げの際に、侵攻してきたソ連軍に現地農民や匪賊による襲撃や略奪からの「保護」を頼み、見返りに数えで18歳以上の女性の「性接待」を要求されたという事実を当の女性たちの証言を交えて描くものだ。「不都合な記憶」(朝日新聞9月5日、「取材考記」)として秘されてきたことがあからさまになった。2017年に、白川村に満蒙開拓団を顕彰する「乙女の碑」が建立され、そこにこの事実の記載がなかったことから、証言へと至ったらしい。
朝日新聞には内モンゴルに移民した山形県の「開拓団」の逸話も掲載された(25年9月10日付)。ソ連軍が迫る中で、近在の開拓団も含め400人にもなった避難民を先導して壁のように立ち塞がる山脈「大興安嶺」を越えさせた先住民族オロチョン族の男性の話。中国の「文化大革命」によって男性が消息不明になるその後までも伝えている。これはほとんど稀な幸運な例だが、現在93歳になる証言者は、存命する当時の最も若い世代といっていい。しかしながら、この世代の多くの子ども、嬰児たちがたどる運命の方に当時、日本のジャーナリズムは熱狂した。1980年代半ばに突如、澎湃として起こる中国残留孤児問題。87年に政府主導の「帰還事業」が始まり、80年代末までに3600人ほどの残留孤児が帰国したが、そこで等閑に付されたのが、同じく2000人余りの残留婦人たちだ。日本に身元保証人がいなかったり、帰国が歓迎されなかったりで、望郷の思いを募らせながら中国に留め置かれた。政府も彼女らの帰国を積極的に支援しなかった。藤田はそうした彼女らを「棄民」と呼んだのだ。
中国残留孤児については宮本研の名作『花いちもんめ』(82年)がある。四国回国巡礼のお遍路姿の女性の一人芝居。携行するトランジスター・ラジオからはひっきりなしに「孤児」の身元探しのアナウンスが流れる。初めは夫が満鉄(南満州鉄道)の技師と名乗っていた彼女は、やがてつきまとう影に怯えるように真実を告白し始める。すなわち、ロシア国境沿いの奥地に植民した開拓団の一員であり、敗戦後、開拓団の男たちを率いた夫と別れ、幼い娘と息子を伴って、としより、女子供たちと逃避行を行うというもの。そして目的地のハルビンで息子が発疹チフスに罹り、その治療費欲しさに娘を現地農民に売ったこと、その娘が今、母親を探して来日していることなどを語る。結局、彼女は名乗りをあげず、娘は空しく中国へと帰っていく。地人会による初演は、萩尾みどりの出演。演出は藤田の恩師ともいえる劇団俳小(当時)の早野寿郎だった。私が観たのは浅利香津代の再演(85年)で、演出は木村光一。浅利一世一代の好演で、万感胸に迫るものがあった。
宮本は藤田より6歳年長だが、いずれも終戦・戦後の時期を大分県で過ごしている。熊本に生まれ、その後父親の勤務地、中国・北京で6年間を過ごし44年に帰国した宮本に対し、職業軍人の父親を持つ藤田は、台湾・台北に生まれ外地で幼少期を経た後、大分の国民小学校で学童時代を過ごした。6歳の違いはあるものの、経歴が重なる宮本に 藤田は親愛の念を隠さなかった。
当然、『花いちもんめ』は知っていようし、自分は、世情喧しい「残留孤児」(山崎豊子原作『大地の子』のTVドラマが大ヒットした)ではなく、日本に帰ってこられず、老いた身をそのまま中国に朽ち果てさせようとしている「残留婦人」について書こう、と意図したのではないだろうか。『花いちもんめ』の影響が伺われるのは冒頭の「影」である(後述)。
もう一つ、藤田をこの企画に駆り立てたのは、俳優座の女優陣だった。とくに最年長の村瀬幸子は築地小劇場の研究生から劇団築地小劇場、夫・北村喜八(劇作家)と共に創設した芸術小劇場など一貫して新劇畑を歩み、1944年設立の劇団俳優座の千田是也、東山千栄子、小沢栄太郎などと並ぶ劇団結成メンバーの一人になった。さらに俳優座2期生の岩崎加根子(現・劇団俳優座代表)と中村たつ、3期下の阿部百合子らの大ベテランが「中国国営哈爾浜外僑養老院」に起居する4人の残留婦人を演じるということが、日頃、息子、娘、孫のような若い世代の俳優を相手に芝居を創っている藤田にとってどれだけモチベーションを掻き立てられたことだろう。晩年に吉田喜重監督『人間の約束』(86年)や黒澤明監督『八月の狂詩曲』(91年)の映画で主演を勤め、全国的な知名度を持つ村瀬は、初演の前橋公演の後に88歳で急逝するが、その後を引き継いだ中村美代子の好演もあって、96年に再演を行うほどのヒット作となった。中村は劇団築地小劇場が解散させられた後、村瀬主宰の芸術小劇場に入り、その後、村瀬を追って俳優座に入団したキャリアを持つ。文字通り村瀬の衣鉢をついだのだ。
足かけ6年かけて全国各地を巡り、地方公演だけで200ステージを超えたという成功は、老舗劇団「俳優座」の力を示して余りあるが、翻って考えれば、この劇に対するそうした関心は、「不都合な記憶」として忘れられていた満蒙開拓団への日本の人々の「贖罪意識」の表れであったのではないか、と今更ながら思う。