写真 宮内 勝

“心証クロがシロへと覆る”のは『12 人の怒れる男たち』と同じだ。だが、こちらには続きがある。捜査本部の結論に関わらず、虎美はテレビ局を出てきたところを東京の警視庁によって逮捕される。やがて一、二審ともに死刑判決を受け、最高裁へ上告。審理中に病を得て死亡したことがアナウンスされる(死去したことで虎美の姓名が実名に戻されたのは言うまでもない)。
それにしても、『異説・豊後訛り節』に始まり、『えせ侍の刀いじり。嘘で丸めて、足で捏ねる。』、『虎美』と3度も同一題材を書き換える藤田の“荒木虎美事件”への固執は尋常ではない。そこには事件そのものを見ず、人を見る日本の刑事司法への疑いと強い憤りがあることは間違いない。だが、それだけでもなかろう。藤田は、自らの故郷、大分県中津にほど近い別府で起きた“事件”に初めから特別な関心を抱いた。事件発生1ヶ月後には、現場の海に面して立った。それから荒木に一審の判決が下るまでの5年間は年に2度ほど帰省すると、友人の元警察官や地元新聞社の仲間を誘って事件の行方を追ったという。福岡高裁による“転落実験”も見ている(藤田「荒木虎美・考」、劇団櫂『異説・豊後訛り節』初演パンフ)。そうして藤田は確信するのだ。冬の荒れた海からの脱出の可能性はない、虎美は文字通り、奇跡的に助かったのだと。
しかし、だとすると、事故直前に妻子に3億円もの保険金を掛けていたことをどう理解すればいいのだろう。十中八九、自身も死んでしまうのだとしたら。常識では考えられない無謀さだ。藤田はそれを「復讐」という言葉で表す。すなわち、虎美の前科の初犯に当たる昭和 25 年(1950)2月の保険金目的・別府放火事件。虎美は無実を訴えながら、直接証拠がないまま状況証拠のみで有罪とされ、7年の実刑判決をくらう。そしてこれを機に、虎美は罪を重ね、以後の 27 年の生涯のうち、22年と4ヶ月を獄中で過ごした。だが、その間、六法全書を読破し、日本の司法への挑戦の意志を研いできた。そしてそれを露わにしたのがこの事件ではなかったか、と、『虎美』では退職警官、『豊後訛り節』では新聞記者、『えせ侍』ではテレビ・レポーターが言う。いわば捜査本部の外部の人間の見立て。同時に、それは藤田のこの事件への見立てでもあったろう。
「復讐」については、私も思うところがある。藤田の作に先立つ 1979 年に公開された映画『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)だ。原作は、63 年から 64 年にかけて起きた5人の連続殺人犯“西口彰”をモデルとする佐木隆三の小説。“西口彰事件”も広域重要指定事件として、当時は世情を騒がせた事件だった。勿論、私は、この映画が藤田に影響を与えたと言いたいのではない。ただ、西口の実家が別府にあり、主要な舞台の一つでもあったことを指摘したいに過ぎない。私淑する今村映画でもあり、藤田は当然、関心を持っただろう。"荒木虎美事件"へのアプローチにもこの映画が動機をなしていたかもしれない。しかし、言うまでもなく、藤田は『復讐するはーー』とは全く異なる方法で臨んだ。そこに劇作家・藤田の本領を見出すのは私だけではあるまい。