藤田傳・細見 第十二回
『異説・豊後訛り節』と『虎美』(下)

 

 『虎美』は 1989 年 11 月に渋谷ジァン・ジァンで上演された。ジァン・ジァンは100 名も入れば満席になってしまうミニシアターだからというわけでもあるまいが、藤田は私に予告したとおり、レジナルド・ローズの『十二人の怒れる男たち』と同様の、全編が一室に限定された室内劇に書き直すのだ。舞台は別府東署に設けられた「三億円保険金殺人事件」捜査本部の紫煙くすぶる会議室。しかも出てくるのが、捜査本部長・垂水を始めとする大分県警から派遣された刑事3人、別府東署の強行犯課長を含む捜査課4人、それに事件が発生した 79 年 11 月の当夜宿直として真っ先に現場に急行した交通課の2人、さらに本部長から協力を要請された退職警官3人の合計、男ばかりの 13 人。この 13 人によって、102 時間に及ぶ捜査の最終結論が話し合われるのがこの舞台である。

 したがって荒木虎美本人はこの劇には登場しない。ただ、虎美の記者会見での応答の声がテープで流れるだけだ。主要なテーマは、前回にも書いた“クルマを運転していたのは誰か”という問題。虎美自身か、それとも彼が主張するように妻の弘子か。弘子であれば、虎美の言うように一家心中説が成り立つ。虎美であれば、事故前に小口の保険を7社にも分けて加入していたという状況証拠がものをいい、彼の犯行を立証できる。そこへ飛び込んできたのが、当夜、国道を埠頭の方へと走る虎美が運転するクルマを見たという女性の証言である。これで一件落着、と本部長以下が小躍りする中で、荒天の深夜、しかも離れた位置からの目視で、運転者の姿かたち、セーターの色まで確認できるだろうか、女の証言に疑義を挟む者がいる。交通課の古参・五所だ。こうして捜査は振り出しに戻る。

 垂水の指示で、改めて最初から事件の概要を辿り直す作劇が極めて巧緻。しかし、そうこうするうち、彼ら捜査本部の頭越しに県警が虎美の逮捕状を請求しようとしているのがわかる。マスコミやテレビに煽られた大衆の突き上げに痺れを切らしたのだ。そこに海底から引き上げられたクルマの運転席の位置の問題が再び浮かび上がる。背の低い弘子に合わせて一番前にスライドされていたシート。しかもそのクルマは自衛隊駐屯地に放置されていた。垂水の結論は一挙にひっくり返る。虎美は“シロ”だと。その間、狂言自殺を繰り返す妻を持つ別府東署の刑事・加古川の家庭問題が絡み、捜査員たちの虎美への心証が徐々に変化しだすのが絶妙だ。

劇団1980 第19回公演
「虎 美」
作・演出:藤田傳

1989 年 11 月 14~19 日
渋谷ジァン・ジァン
〃    11 月 21~23 日
横浜相鉄本多劇場

1990 年 3 月
パルテノン多摩小劇場フェスティバル

 写真 宮内 勝

 “心証クロがシロへと覆る”のは『12 人の怒れる男たち』と同じだ。だが、こちらには続きがある。捜査本部の結論に関わらず、虎美はテレビ局を出てきたところを東京の警視庁によって逮捕される。やがて一、二審ともに死刑判決を受け、最高裁へ上告。審理中に病を得て死亡したことがアナウンスされる(死去したことで虎美の姓名が実名に戻されたのは言うまでもない)。

 それにしても、『異説・豊後訛り節』に始まり、『えせ侍の刀いじり。嘘で丸めて、足で捏ねる。』、『虎美』と3度も同一題材を書き換える藤田の“荒木虎美事件”への固執は尋常ではない。そこには事件そのものを見ず、人を見る日本の刑事司法への疑いと強い憤りがあることは間違いない。だが、それだけでもなかろう。藤田は、自らの故郷、大分県中津にほど近い別府で起きた“事件”に初めから特別な関心を抱いた。事件発生1ヶ月後には、現場の海に面して立った。それから荒木に一審の判決が下るまでの5年間は年に2度ほど帰省すると、友人の元警察官や地元新聞社の仲間を誘って事件の行方を追ったという。福岡高裁による“転落実験”も見ている(藤田「荒木虎美・考」、劇団櫂『異説・豊後訛り節』初演パンフ)。そうして藤田は確信するのだ。冬の荒れた海からの脱出の可能性はない、虎美は文字通り、奇跡的に助かったのだと。

 しかし、だとすると、事故直前に妻子に3億円もの保険金を掛けていたことをどう理解すればいいのだろう。十中八九、自身も死んでしまうのだとしたら。常識では考えられない無謀さだ。藤田はそれを「復讐」という言葉で表す。すなわち、虎美の前科の初犯に当たる昭和 25 年(1950)2月の保険金目的・別府放火事件。虎美は無実を訴えながら、直接証拠がないまま状況証拠のみで有罪とされ、7年の実刑判決をくらう。そしてこれを機に、虎美は罪を重ね、以後の 27 年の生涯のうち、22年と4ヶ月を獄中で過ごした。だが、その間、六法全書を読破し、日本の司法への挑戦の意志を研いできた。そしてそれを露わにしたのがこの事件ではなかったか、と、『虎美』では退職警官、『豊後訛り節』では新聞記者、『えせ侍』ではテレビ・レポーターが言う。いわば捜査本部の外部の人間の見立て。同時に、それは藤田のこの事件への見立てでもあったろう。

 「復讐」については、私も思うところがある。藤田の作に先立つ 1979 年に公開された映画『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)だ。原作は、63 年から 64 年にかけて起きた5人の連続殺人犯“西口彰”をモデルとする佐木隆三の小説。“西口彰事件”も広域重要指定事件として、当時は世情を騒がせた事件だった。勿論、私は、この映画が藤田に影響を与えたと言いたいのではない。ただ、西口の実家が別府にあり、主要な舞台の一つでもあったことを指摘したいに過ぎない。私淑する今村映画でもあり、藤田は当然、関心を持っただろう。"荒木虎美事件"へのアプローチにもこの映画が動機をなしていたかもしれない。しかし、言うまでもなく、藤田は『復讐するはーー』とは全く異なる方法で臨んだ。そこに劇作家・藤田の本領を見出すのは私だけではあるまい。

 

七字 英輔  しちじ えいすけ

 1946年大分県生まれ。月刊『ローリングストーン』(日本版)、季刊『is』(ポーラ文化研究所)各 編集長を経て、編集プロダクション(株)テスピスを設立(代表取締役)。82年頃より各紙誌に演劇批評 を執筆する。86年~96年まで前橋芸術祭の総合プロデューサーを務める。92年に韓国から劇団木 花を、96年~07年に4回にわたりモルドバからウジェーヌ・イヨネスコ劇場を、02年にルーマニアからラドゥ・スタンカ劇場を日本に招聘する。またシビウ国際演劇祭(ルーマニア)、キシナウ国際演 劇祭(モルドバ)の窓口役を果たすとともに東欧演劇との積極的な交流を行っている。

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