劇団1980とは

1980年

今村塾を出た連中と芝居の打ち上げ。最後が

朝のコマ劇場前

蛮声一番。散ろうとしたが、この侭放置すれ

ばお巡りの世話になるか、親を泣かせるか、

女を泣かせるか、自分で泣くか。それなら俺

も一緒に泣こう、と劇団を作った。

どうせ二、三年で潰れるだろう。色々名前の

候補があったが、年号をその侭劇団名にした。

それが三十年。呆れるのみ。

藤田 傳

公演年表に行く

「1980」と書いて「イチキュウハチマル」 、通称ハチマル。

横浜放送映画専門学校(創設者=今村昌平 現:日本映画大学)を母体とし、演劇科卒業生が創立メンバーとなって、文字通り1980年に結成。旗揚げ公演は81年『古事記より乞食』(作・演出:藤田傳)。以来、劇団主宰者であり劇作・演出家の藤田傳の作品を中心に舞台公演活動を継続し続ける演劇集団です。

公演は、首都圏の劇場を会場として新作を上演する本公演の他、演劇鑑賞団体や芸術鑑賞事業の呼びかけに応じて全国各地を巡演する演鑑公演学校公演、ルーマニア・モルドヴァ・ブラジル・韓国等での長期公演を実施し多くの親交と実績を挙げている海外公演、また若手俳優陣を中心とする劇団アトリエでの実験的創作というべき「別冊はちまる」など、さまざまな形態で舞台作品を発表しながら、ハチマル的オリジナリティと演劇表現のさらなる可能性を追求し続けています。

これまでの劇団活動30年を類別すると、

【1980年代】

”ハチマル・アンサンブル”ともいうべき猛スピードのダベリ会いを駆使し、社会底辺や辺境の地から現代社会を逆照射した作品群を発表。社会から見捨てられた老人達のしたたかな、しかし未来無き抵抗を描いた『老人3部作』や、高度成長の恩恵に浴することもなく、僻地として見放された地方の村々の視点から戦後日本の歩みを見つめた『ツイテナイ日本人3部作』など、バブル期日本の盲点を掘り起こしながら”ドしがたい日本”を軽妙なやりとりで笑い飛ばし、ハチマル作品の骨格を形成した。

【1990年代】

三味線・太鼓、アカペラに口三味線――和風音曲を取り入れたエンターティメント性豊かなオリジナル作品を次々と上演。中でも民間伝承芸能という形態で再現しながら近代日本史のからくりを解き明かす『日本土民考? 謎解き 河内十人斬り』や、日本のレコード歌謡草創期の歌手・佐藤千夜子の生涯を、懐かしの昭和歌謡に乗せて綴った『素劇 あゝ東京行進曲』等は、その後数多くの再演が重ねられ、ハチマルを代表するロングラン作品となった。演鑑公演の開始、初の海外公演の実施、また映画『大往生』の製作(監督:藤田傳/劇団1980・秋田県二ツ井町共同製作)など、劇団としての活動展開も一気に拡大していく。

【2000年代】

藤田傳書き下ろし作品のほか、新たに外部から作家、演出家、俳優らを招き、ハチマル劇様式に新風を巻き込む。『素劇 あゝ東京行進曲』(演出:関矢幸雄)、『ええじゃないか』(演出:金守珍)、『行路死亡人考』(演出:ペトル・ブトカレウ)、『宇田川心中』(原作・脚本:小林恭二/演出:金守珍)等々、苛烈な共同作業で次々と作品を発表。中でも『素劇 あゝ東京行進曲』は南米ブラジル・パラグアイ公演(04年)を、『ええじゃないか』は韓国公演(07年)・ブラジル公演(08年)を敢行し1ヶ月以上に亘る長期海外公演を成功させている、また国内の演鑑公演においても数多く重ねられ、ハチマルの演劇的体力と発信力を着実に醸成していった。また、「別冊はちまる」も本格的に開始。アトリエ的創作から始まった『落語芝居』は全国を巡演するハチマル表題作の一つに成長している。

これまでさまざまな舞台作品を創造しながら、劇団1980が一貫してこだわり続けているのが『喜劇ニッポン』です 。

社会が注目した出来事や歴史の中に表出した事件を取り上げるのではなく、近代化の歴史から忘れ去られたような出来事や、現代社会の底辺に埋もれた事件に着眼してみることにハチマル作品の特徴があります。

主宰・藤田傳の劇作は、今日の日本がこれまでの繁栄との引き換えのように切り棄て、見限り、手放したものを丹念に拾い集め、そこに隠れている社会矛盾を照らし出し、さらにその矛盾の上に立っているにもかかわらず、いまだ安穏として繁栄にしがみつく”日本人のドしがたさ”に、私たち自身の姿を投影しようとするものです。

劇団1980の舞台は、この奇妙な国・ニッポンのドしがたさを笑い飛ばしつつ、私たち自身でもある”喜劇的日本”を真っ当に描いていきます。